2026年5月5日
量が質に変わる場所と、変わらない場所
ある実験の話を最近読んだ。
陶芸クラスを二つに分け、一方は「量」で、もう一方は「質」で評価したという。量グループは、学期末までに一定の重量の作品を提出すれば成績がつく。質グループは、たった一つの完璧な作品を出せばよい。
学期のあいだ、量グループの学生たちは、ただひたすら土に手を突っ込んだ。失敗作を脇に積み上げながら、土がどう壊れ、どう立ち上がるのかを指先で覚えていく。質グループの学生たちは、机の前で考え込んでいた。何が完璧なのか、どう作れば一発で決まるのか ── 議論しているうちに、土はそのまま乾いていく。
学期末、最も優れた作品を持ってきたのは、意外にも量グループだった。質グループの机には、書きためた構想ノートだけが残っていた。
『Art & Fear』という本に書かれている逸話だ。
この話を読んで、私はすぐに二人の自分を思い出した。
一人は、紙に書くことを8年続けてきた自分だ。
ノートに残すのではない。ルーズリーフや印刷用紙に書きつけて、書き終えたら捨てる。手元には何も残らない。残るのは、私のなかに積み上がった何かだけだ。
最初に書いていたのは、本能的なことばかりだった。お腹がすいた、眠い、誰かに腹が立つ。それが、いつの間にか理性的なものに変わっていった。何をどうしたらいいか、なぜそれをすべきか。同じことをぐるぐる考える時間は、確実に減った。
思い出す夜がいくつもある。誰にもぶつけられない怒りを、ペンの先から紙に書き殴った夜。何が引っかかっているのか自分でも分からないまま、モヤモヤした思考を十枚以上書き続けた夜。書き終わったあと、頭はスッキリしていた。書いている時間そのものが、自分と向き合う時間になっていた。
怒りを収めるとき、考えを整理するとき、私は紙にペンを置く。理屈ではない。8年積み上げた手触りが、そう教えてくれる。
これは、量が質に転じた経験だ。意識して質を求めたわけではない。ただ書き続けていたら、いつの間にか別のものが、自分のなかに残っていた。
もう一人の自分は、まったく逆のことを繰り返してきた。
ここ数年、私は何かしら成果に繋がりそうな取り組みに何度も手を出してきた。技術的なものもあれば、お金に関わるものもある。アイデアを練る段階ではワクワクする。これでいけるのではないか、と思う。だが、最初の試しの結果が思わしくないとき、私は急に冷める。「このアプローチは違うんじゃないか」「もっといい方法があるのでは」── 頭が動き始め、別の手段に乗り換える。
同じテーマを半年以上続けたことは、ほとんどない。
陶芸クラスの質グループの学生たちが、何が完璧かを考えすぎて土を放り出したのと、私は同じことをしている。最初の数回で「これじゃない」と判断する。判断は速い。でもそのたびに、まだ手のなかにない「正解」を探して、次の山に登り直している。
なぜ、紙に書くことは続いたのに、こちらは続かなかったのか。
たぶん、評価軸が違ったのだ。
紙に書くことは、書いた瞬間に「スッキリする」という小さな見返りがあった。誰かに見せるわけでもないし、何かを達成するためでもない。書くことそれ自体が目的だった。だから続いた。
一方の取り組みは、毎回「これは未来に繋がるか」を問い続けるものだった。最初の試しが外れた瞬間に、未来が見えなくなる。見えないものに時間を投じる気にはなれない。だから乗り換える。乗り換えるたびに、量は積み上がらない。
評価が早すぎる。それが、私の量を殺してきた。
ふと、想像してみる。
もし8年前から、紙に書いていたものを発信していたら、いまの自分はどうなっていただろう。
最初は「そんなに変わっていなかったかもしれない」と思った。だが、引っかかった。
たぶん、アクセス数くらいは伸びていた。書評を書いて、本のアフィリエイトに繋がっていたかもしれない。技術的なことを書いていたら、それを読んだ誰かが声をかけてきて、仕事や転職に繋がっていたかもしれない。いつかは、本を書く話になっていたかもしれない。
人との出会いがもたらす変化は大きい ── これだけは、はっきりと知っている。続けてきた8年と、何度も乗り換えてゼロから始め直してきた8年。その差は、おそらく自分が思っているより大きい。
ナヴァル・ラヴィカントは「自分をプロダクト化する」という言い方をしている。一発のヒットを狙うのではなく、自分の出力そのものを資産にしていく ── 文章でも、コードでも、構わない。一度書いたものは、自分が眠っているあいだにも誰かに読まれ、誰かに残る。
この発想に惹かれた。原理的に「量を信じる」発想だからだ。短期のリターンではなく、長期の複利が効くゲームを選ぶ。手段は違っても、本質は陶芸クラスの量グループと同じだ。続けていれば、いつか質に転じる ── あるいは、人がついてくる。アイデアが磨かれる。誰かが声をかけてくる。
複利は、止めなければ働く。止めると消える。それだけのことなのに、私はずっと止める側にいた。
ブログを始める。
これは私にとって、量を信じてみる実験だ。最初のいくつかの記事が読まれなくても、「これじゃない」と判断しないことを、自分に課したい。半年で乗り換えてきた過去のパターンに、もう一度同じ判断をさせない。
ジェームズ・クリアーの『複利で伸びる1つの習慣』に、結果ではなくプロセスに集中せよ、という考え方がある。「自分はこういう行動をとる人間だ」と決めて、行動を続ける。方向性さえ合っていれば、結果はあとから、ついてくる。書きながら、自分はそれをやろうとしているのだ、と気づいた。
正直に言えば、ブログという方向性が合っているのかどうか、いまも少し不安はある。だがこれは、ナヴァルの考え方を自分なりに落とし込んだ結論として、選んだ場所だ。ならば、少しだけ、ここに賭けてみる。
紙に書いてきた8年が、私のなかで何かを変えたように、書いて発信するという行為も、何かを変えるはずだ。それが何かは、まだ分からない。
土をこねる側に立つ。今度こそ、そう決めてみる。
参考にした本
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David Bayles, Ted Orland 『Art & Fear: Observations On the Perils (and Rewards) of Artmaking』(1993)
- 陶芸クラスの逸話の出典。和訳は刊行されていないため原書を参照。
- Amazon.co.jp(原書)
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エリック・ジョーゲンソン著/櫻井祐子訳 『シリコンバレー最重要思想家 ナヴァル・ラヴィカント』(サンマーク出版、2022)
- 原題: The Almanack of Naval Ravikant
- Amazon.co.jp
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ジェームズ・クリアー著/牛原眞弓訳 『ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣』(パンローリング、2019)
- 原題: Atomic Habits
- Amazon.co.jp