2026年5月5日

AI時代に、人間が言葉を残すということ

AIはどんどん賢くなっていく。

私はAIに関わる仕事をしている。AIサービスを作り、自治体や企業、大学でAIの研修や講演をする。

その日々のなかにいて ── あるいは、そういう日々を送っているからこそ、人間にできることは少しずつ減ってきているような感覚がある。何かを書くことも、何かを作ることも、何かを判断することも、AIの方がうまくできる場面が増えてきた。

しかし、AIには弱点がある。コンテキストだ。

知人のことを、人間は一から忘れたりしない。何年も会っていなくても、過去の会話の流れや、その人の癖、価値観の手触りが残っている。一方でAIは、毎回まっさらに忘れる。文脈は外側から渡してやらないと持てない。

だから私は、自分の考えを言葉として残しておきたい。AIに自分のコンテキストを渡すために。そうすれば、他の人と話すのと同じように、AIと話せるはずだ。


ところが私はこれまで、考えたことをノートやメモに書きつけてきたが、世に出したことはほとんどなかった。

理由はいくつもある。完璧な文章でないと出したくない。学校教育で「正解を出すこと」に最適化されてしまっていて、不完全なものを世に出すのが怖い。

しかし、本当に怖かったのは、たぶん別のことだ。

言葉にすると、それが「正しいもの」になってしまう。そして自分はそこから変えられなくなる。

これは抽象的な話ではなく、実体験として持っている。

23歳の頃、自分のための座右の銘を作ったことがある。執着を手放すこと、物を減らすこと、思考を減らすこと ── 東洋古典的な、縮減の哲学だった。当時の私には、それは完璧に機能した。シンプルに、淡々と、必要最小限で生きるのが心地よかった。

それから7年が経った。今、私は30歳で、結婚もした。妻は物が好きで、旅行も好きな人だ。仕事も忙しくなった。二人で新しい生活を作っていく必要があった。そうなったとき、私の銘はうまく機能しなくなった。

それでも私は、自分が書いたあの言葉が「正しい」と思っている。だから無視はできない。

たとえば、いまの私は妻と二人で、もう少し自由な暮らしを作りたいと思っている。物に囲まれた部屋ではなく、上質なものを少しだけ持つ部屋。旅行に好きなだけ行ける時間。静かでホテルのような落ち着きのある日々。── そういう暮らしには、お金がいる。

だから稼ぎたい。けれど、銘の言葉が同時に立ち上がる。「人生は短いのに、お金を稼ぐことに時間を使っていいのか」と。

これは、自分で自分の言葉に縛られている、ということだ。

だから、私は言葉を残すのが怖かった。書いてしまうと、それが固まる。固まると、自分はそこから動けなくなる。


しかし、AI時代の言葉は、少し違う性質を持てる。

AIに渡す言葉には、日時というコンテキストが付く。「2019年の自分はこう書いていた」「2026年の自分はこう書いている」と、時間軸の上に並ぶ。

すると、AIは過去の言葉を「絶対的な正解」として扱わない。代わりに、「過去のあなたはこう考えていましたが、今はどうですか」と問い返してくれる。

これは大きな違いだ。

紙に書いた言葉は、書いた瞬間から固まる。読み返すたびに「これが正しい」と確認するだけになる。 AIに渡した言葉は、書いた瞬間から対話相手になる。読み返すたびに「あの頃はそう思っていたが、今はどうか」と問い直される。

つまり、AI時代において、人間が言葉を残すという行為の意味そのものが変わっている。

これまで、言葉を残すとは「自分の収束を石碑に刻む」ことだった。 これからは、言葉を残すとは「未来の自分と対話するための素材を作る」ことになる。


ここまで書いて、これは自分への縛めだと気づいた。

書くことが怖かった私が、いま書き始めようとしている。これは決意というよりは、自分への記録だ。「あの頃、私はこう書いていた」と、未来の自分が読み返すための種だ。

だから、これは完璧な文章でなくていい。完璧な文章は石碑になる。石碑は対話相手にならない。

不完全なまま、書き残す。それが、AI時代に人間が言葉を残すということだと、いま思っている。